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bar bossa vol.48

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vol.48 - お客様:上川大助さん(ロス・バルバドス)


【テーマ:俺のキンシャサ】





いらっしゃいませ。
bar bossaへようこそ。

今回は、渋谷のロス・バルバドスの上川大助さんをゲストにお迎えしました。


林;こんばんは。お飲物はどうしましょうか?


上川;ノン・アルコールの、エルダーフラワーのやつ、お願いします。


林;フーゴのアルコールなしですね。かしこまりました。さて、早速ですが、お生まれと小さい頃の音楽体験を教えてください。


上川;1960年、目黒区の大岡山で生まれました。小学校入る頃、やっと家にテレビが来て、シャボン玉ホリデイっていう番組でクレイジーキャッツ見たり、当時流行ってたGSが最初に触れた音楽かな。初めて買ったレコードは、よく覚えていないけれど、確かスパイダース。


林;うわ、最初のレコードがスパイダース!


上川;そう。で、いつだったか、おふくろがどこからか蓄音機もらって来たんだよ。それにソノシートが何枚か付いてて、映画音楽のコンピみたいなやつだったんだよね。ビートルズの「涙の乗車券」のインストが入ってて、好きでそればっかり繰り返し聞いてたのを覚えてる。おふくろは若い頃歌舞伎座で働いてたんで、周りに音楽好きも多かったみたいで、デューク・エリントンやベニー・グッドマンなんかのスイングジャズが好きだった。俺が小さい頃死んじゃったオヤジは、洗足池で喫茶店やってて、ジャズかけてたんだって。わりと周りにそんな音楽はあったんだよね。


林;なるほど。それは羨ましい音楽環境です。


上川;小学校高学年になると、日曜日の朝ラジオでやってた、ニッポン放送だったかな・・・「アメリカ20」っていう番組があってさ、それよく聞いてた。カーペンターズや、ミッシェル・ポルナレフ、エルトン・ジョンなんかがかかってた。


林;アメリカが輝いていた時代ですよね。中学のときはどうでしたか?


上川;中学二年の時仲良くなった、同じクラスのタケウチくん。二コ上の姉さんがいて、それが美人なんだけどズベ公でさ、その姉さんがロック好きだったんだよ。頭脳警察のファンだった。タケウチくんもその影響でいろいろ知ってて、教えてくれた。「ラジオ関東で面白い番組やってるぜ」って、「オー・シンディ」教えてもらって。加藤和彦とミカがパーソナリティー。毎日やってたんだよね。当時ボブ・ディランがちょうど8年振りの復活コンサートを全米でやっていて、一か月ずうっとディランばっかりかけてた。そこでディラン初めて聞いて、いいなぁって思って。


林;加藤和彦とミカのラジオ番組があったんですか。ディランがいいなぁと思ったというのも意外ですね。


上川;そう? で日曜の夜は、ジャズピアニストの三保敬太郎とフォークロックシンガーの生田敬太郎の二人がやっていた番組。そこで村八分とか知って、日本にもこんなバンドがあるんだーとガツンときたのを覚えている。そこからフォークやロックをよく聞くようになったかな。


林;そういうラジオ番組で村八分とかはみんな知ったんですね。


上川;うん、そう。それでしばらくしてまたタケウチくんが「夜逃げジャンボリー」って番組面白いぜ、って。なぎら健一がパーソナリティー。深夜3時からだったから、水曜の晩は早く寝て、3時に起きて聴いてた。そこでカントリーやフォーク、ブルーグラスなどアメリカのルーツミュージックを知ったんだよね。ウディ・ガスリーやミシシッピー・ジョンハートなんか知ったのもこの番組。エア・チェックして、何度も聞いたよ。


林;渋い中学生ですねえ。


上川;4時半まであって、その後5時まで30分間は関西の番組を買い取ってオンエアしてたみたい。アメリカのSSW系をよく流す金森幸介から京都のフォークシンガー東野ひとしにパーソナリティーが変わったら、ジョルジュ・ブラッサンスばっかりかけてさ。シャンソンってそれまで、エディット・ピアフや、日本なら有名なのってアダモだったじゃない? 変な音楽だなーって思ってたけど、ブラッサンスはかっこいい! と思っちゃってさ。イヤなガキだよね。


林;ダイスケさんらしいです。


上川;当時ラジオの公開録音とかあってさ、日大両国講堂で、チャーが入った古井戸のライヴとか見たよ。俺の影響で音楽好きになったサッカー部のイシカワくんと、遠藤賢司が渋谷でやってたカレー屋「ワルツ」でなぎらさんの番組の公開録音見に行ったりもしたな。


林;うわー、遠藤賢司って、カレー屋やってたんですね。そして公開録音も!


上川;そうなんだよ。で高校入ったら、仲の良かったヒラタとオザワと一緒によくギター弾いてた。
ある時オザワが乱童夢(ランドーム)っていうガリ版刷りのミニコミどっかからもらって来てさ、中身はマリファナとかグレートフル・デッドの話。地元のヒッピー崩れの、俺たちより少し上の連中が作ってたんだよね。そこに夏、市営グラウンドでフリー・ライヴをやりたいからボランティア・スタッフ募集ってあって、三人で行ったんだ。そこで、今でも時々店に来てくれるくらい長い仲になった、二つ上の奴ら何人かと知り合った。そいつらはブルースやソウル、ブリティッシュロック、サザンロックなんかバンドでやってて、リハ見に行ってその辺りの音楽を知った。


林;70年代半ばですね。雰囲気伝わりますねえ。


上川;うん、その頃かなぁ、立ち読みした宝島にボブ・マーリーが襲撃されたニュースが載ってたんだけど、まだレゲエに興味無かったし、このヒトなんなんだ? と思ったけどスルーしちゃった。ブルース・スプリングスティーンのボーン・トゥ・ラン聴きまくってた頃だから。


林;あ、ダイスケさん、その頃はブルース・スプリングスティーンでしたか。わかってきました。


上川;わかってきた? そうこうするうちにヒラタが「おじさんからもらった面白いレコードあるから聴きに来いよ」って誘われて。ジーン・ビンセントの7インチ。ロカビリーだよね。ヒラタんちは公団の5階でさ、なぜかTVKが普通に見れたんだよ。電波の弱いローカル局の番組が、なんかの拍子に見れちゃう、とかあったんだよね。

TVKってもともと音楽番組が多かったんだよ。おじさんの7インチ聞いて、テレビ点けたらTVKでなんたることか「パンク特集」やっててさ。クラッシュの「白い暴動」、JAM の「イン・ザ・シティ」、ピストルズの「アナーキー・イン・ザ・UK」だよ! 大ショックよ、もう。そこからパンクまっしぐら!


林;待ってました! さて、その後、高校を卒業しますが。


上川;卒業したら調理師学校を中野に選んだのも、高円寺に鳥井ガクのやってたブラックプールっていうパンク飲み屋があったから。そこにもよく通ったし、吉祥寺にDOLL主催のフィルムコンサート、皆でPV見るって感じなんだけど、そんなイヴェントがあって、そこでロンドンのパンクをいろいろ聴いたな。

そのうち「東京にもすごいのあるらしいぜ」って、東京ロッカーズの存在を知ったんだ。「パンク仕掛け99%」っていうライヴ・イヴェントのフライヤー見て、碑文谷にある目黒福祉会館のホールに行ったよ。リザード、ミラーズ、Sケンなど6バンド出た。リザードもかっこよかったけど、代わりにトリのフリクションがステージに立った時の衝撃ったら無かった。今でもよく覚えてる。ステージの空気がガラっと変わったんだ。MC無し、30分ぱーっとやっておしまい。すげぇ、なんだこれ!! ってそれからはフリクション。新宿のロフトや屋根裏、いろいろ見に行った。ラピスさん(ギタリスト)の真似して、トレーナーの肩のあたり破いたり、Tシャツに血糊塗ったり、安全ピン刺したりさ。銀座のソニープラザにデップっていう髪立たせるジェルが売ってるって聞いて、わざわざ買いに行ったりもした。


林;フリクションでしたか。あ、僕も高校の時、デップ買いましたよ!


上川;買った? そうだよな。で当時住まいの近くの津田沼にソングバードっていうアメリカン・ロックかける店があった。時々顔出してたんだけど、ある時店主に「お前、パンク好きなら市川にできたロッキンっていう店行ってみろよ」って教えられてさ。行ったら「パンクは無いけどレゲエはあります」って。そこで初めてボブ・マーリーを聴いたんだよね。

ロッキンの向かいの酒屋で働いている神宮さんっていうのがいて、俺のこと聞いたのかふらっと入ってきて「こういう音楽に興味あるの?」「パンクが好きなンすけど、レゲエにも興味あります」そしたら「実は世界は今すごいことになってるんだよ」って話始めて。ジャマイカのレゲエ、中南米のサルサ、ハイチの音楽、ブラジルのジョルジュ・ベン、アフリカのフェラ・クティ・・・。毎週水曜の夜にその辺の音楽かける「サードワールド・ティーパーティー」やってるから来い、って言われて。それに顔出すうちに、またいろんなやつらと知り合った。


林;おお、良い感じですねえ。


上川;でも根がパンクだったからいまいちはまらなかった。そんな時、千葉パルコにあった山野楽器が「レゲエを推す」ってことになり、東芝EMIの当時ボブ・マーリー担当ディレクターの三好さんと神宮さんのトークショーっていうのがあったんだよね。そこでボブ・マーリーのロンドンのライヴ映像見たんだよ。それでガツンときちゃってさ。ソニー・ビルや緑屋のオーディオルームで、山名昇、藤川Q、例の三好さんなんかがやっていた「レゲエシンジケート」っていうレコードコンサートに通うようになったんだ。通ううちに「ロッカーズ」っていう映画がもうすぐ日本でも見られるぞって話を聞いて、80年の夏だったかな、原宿のラフォーレであった上映会に行ったんだ。もう、冒頭のシーン、ラスタがナイヤビンギやってる、あれにやられちゃったね。レゲエバンドやりてーなー、って思い出して、昔池袋西武の端っこにあったホールでのロッカーズ上映イヴェントに友達誘ってまた見に行ったんだよ。上映の前に、ナーキのバンドとミュート・ビート、クールラニングスが出た。ミュートは最高にかっこよかった。


林;ダイスケさん、伝説の場所には全部、参加してますね。


上川;あはは。で、その一緒に行った友達と「ソルジャーズ・トーク」っていうレゲエバンドを結成したんだ。メイヨ・トンプソンがやってたサイケデリック・バンド「レッド・クレヨーラ」のアルバムタイトルから取ったんだよ。かっこよかったから。このバンドは2年余り活動した。当時原宿にあったサンビスタや、クロコダイルの深夜の部、デビューは椿ハウスの「レゲエ・ナイト」だった。


林;デビューが椿ハウス!


上川;そうなんだよ。でトロンボーン吹いてた増井が、掛け持ちしてたミュート(ビート)やメロンの仕事が忙しくなって抜けることになって、レゲエ・バンド、これからどうしようか、なんて考えてた時に神宮さんがキンシャサ旅行から戻ってきた。「ダイスケ、キンシャサすげぇよ、行こうぜ」って誘われて。当時乗ってたワーゲン売ったのと、バイトで貯めた金で行くことにした。本当はジャマイカ行こうと思ってたんだけど、ジャマイカにはその頃もう日本人が結構行ってて。じゃあ、未踏の地もいいかな、って。


林;ダイスケさんの人生が動いた瞬間ですね。


上川;そうだね。で生まれて初めての海外旅行が84年12月のザイール(現在コンゴ民主共和国)のキンシャサ行き。まずアフリカ大陸にはケニアから入った。一緒に行った仲間にジャンキーのタロウくんっていうのがいて、ナイロビ着いたらすぐ消えちゃった。あれ、どこ行ったの? なんて話してたらコーディネーターの相楽さんが「あぁ、なんかブラウンシュガー買えるところあるって聞いて行っちゃったよ」って。

今はナイロビも治安が悪いらしいけど、当時はもっとのんびりしてたんだよね。空港もきれいで、入国審査も「普通」な感じで、アフリカって言ったって、そんなに変わんないじゃん、ってその時はたかくくってたんだ。ところがザイール入ったら大変。空港はボロイわ、わけわかんない人が大勢いるわ、なんだかんだ言ってくるわで、とにかくパワーがもの凄い。もう、空港からしてカオスなの。キンシャサ入って最初の一週間は調子出なかったねー。やられっぱなしよ。


林;ダイスケさんもやられるんですね(笑)。


上川;もちろんだよ。で一週間たった頃、神宮さんから「ライヴチェックしがてら散歩行こうぜ」って誘われて、歩いてった。いつどこそこでライヴやります、っていう告知のヴァン・カルテ(看板)が街中のいたる所にあった。お店に入って神宮さんにオーティスが、昔どうしてパパ・ウェンバがイシフィっていうバンドから追放されたか、なんて話してんの聞いてて。
そしたら、えらくクールな男が入ってきた。素肌にスーツ、素足に革靴、身長も190cmくらいあって、すごくかっこいいの。わぁ~と思って、いきなり抱きついちゃったんだ、俺。彼はヴィヴァの取り巻きのコロネール・ジャガーだったんだけど、いきなり初対面の、それもぶっ飛んだジャポネが抱きついてきてびっくりしてたよ。でも、その後いろいろ話してくれた。もう、完璧ヤクザなんだけど、優しいんだよ。で、ちょっと落ち着いてきたから神宮さんとそのお店をあとにした。帰り道添いにブロック塀があってさ、ほら、昔日本にもよくあった、松の形にくり抜いてあるタイプのやつ。あれ見てたら「なーんだ、日本と大して変わらないじゃん」って思った。一気にキンシャサが親しくなったよ。それからは、もう絶好調!


林;それで絶好調ですか。


上川;そう! あ、ここでちょっと自慢話してもいい?この頃、フランコに会ったんだ。ライヴではもちろん見ていたけど、フランコの家に行って会ったの。ある時ホテルに、ヴィヴァのセキュリティーやってた空手家のデカいドナってのが迎えに来てさ「今日これから、ヴィヴァがフランコの家でパーティーやるから来いよ」「えー、そんなパーティーに俺たち行っちゃっていいの?」って感じだったんだけど、得意のノー・プロブレム! で、ついてった。

高級住宅街であるリメテっていう所にフランコの豪邸があった。いわゆる、コロニアル建築。その広い中庭で、お金持ちっぽい人がたくさん集まって飲み食いしてた。バンドは、ヴィヴァとフォルクローレがいくつか出てたかな。途中でドナに肩叩かれて「上見てみろよ」って。見上げたら3階のバルコニーから見下ろすフランコがいたんだ。わー、伝説の人を近くで見ちゃったーって思ってたら、じきに下りてきて。今度はドナが「挨拶して来いよ」って言うもんだから恐る恐る近づいたよ。まだリンガラ語もそんなにできなかったから「ンボテ(こんにちは)」みたいな挨拶くらいで。フランコ機嫌が良かったのかニコニコして、握手してくれたんだ。いやー、感激した。


林;すごい経験ですね。


上川;うん。その時の旅行中、キンシャサで俺たちのめんどう焼いてくれたのが、アシンバ・バッシーていうジャーナリストだった。まじめで、本当にいいやつで、音楽誌に書いてたんだけど、今は社会派ジャーナリストになって活躍しているよ。

アシンバにある時「グラン・ザイコの周年パーティーがあるから、お前ら一緒に演奏してみないか」って言われた。えー、できんのかな?って思ったけど、リハに参加したらメンバーが皆いい人ばかりで。まぁ、大人のベテラン・バンドだからね、余裕があるんだよ。「そうか、そうか、それならこの曲一緒にやろう」って練習してくれてさ。コズミークっていうライヴハウスで、一曲演奏させてもらえたんだ。


林;そんなにあっさりと...


上川;そうだね。で一回目のキンシャサから戻った時、レゲエ・バンドよりアフリカに特化したバンドやりたいなーって思って、友人数人と、小編成でコンゴ音楽やる「モロカイ・スターズ」っていうバンドを始めたんだ。ヴォーカルのアラタはスワヒリ語勉強してて、ケニア、タンザニアを周ってた。でもコンゴは行ってないって言うから、じゃぁ、行ってみっか、と。二度目のキンシャサは、86年から87年にかけて半年滞在した。


林;日本ではバブル絶好調ですね。


上川;はは。で、ヴィクトリア・エレイソンっていうバンドに入りたくて、空港からのタクシーの運ちゃんに「ヴィクトリア、今キンシャサにいるの?」って聞いたら「ヨーロッパ行ってて2月になんなきゃ戻んないぜ」って。だけど、一回目のキンシャサで仲良くなってたアリっていうヴィクトリアのバンドボーイは残っていたから、真っ先に顔出した。すごくいいやつで、顔も広かったからね。ヴィクトリアがいなかったのは残念だったけど、ヴィヴァ(・ラ・ムジカ)の連中と一緒にやることができた。パパ・ウェンバは単身パリに渡っちゃってたんだけど、他のメンバーは残ってたんだ。

ある日リジョ・クェンパ(ヴィヴァのヴォーカルのひとり)の家に遊びに行ったら「行きつけのバーに行こうぜ」。そのバーでプレイバック(レコードの音源に合わせて歌ったり踊ったりすること)やらされた。リジョが勝手に画策してたんだ。ジャポネが踊るぞーって皆に声かけちゃってて、すごい人集まってたから。しょがないからアラタと二人で踊ったら大ウケ! 娯楽が少ないからさ、街中に広まっちゃった。おかしなジャポネがいるぞ、ってね。


林;お、始まりましたね。


上川;うん。で、そしたら次は「TVに出て踊れ」って。口パクで踊ったよ、何曲か。その頃TVが家にある所なんてそうそう無かったし、出たからって影響無いよな、と思ってたら皆見てた。TVのある家に集まって見てんだよ。昔の日本と一緒。ホテルに戻ったら周りにいたガキどもがばーっと集まってきて「TV見たよ~」って大騒ぎ。キンシャサで有名人になちゃったから、今度はバンドに入って演奏しろ、って。それでヴィヴァに入れてもらったんだ。


林;なるほど。そういう経緯があったんですね。


上川;そう。三か月もすると、他のバンドのメンバーやら取り巻きやら、音楽関係者の友達がたくさんできた。帰国間際に「タバコの新商品のプロモでツアー周るから、一緒に来い」って声かけられた。あと一週間もしないで帰国予定だって言ったら「大丈夫、2~3日だから」って。それが結局二週間だよ。


林;(笑)


上川;ツアーは今でいうバコンゴ州、キンシャサから西の方。マタディに二日、ボマに一週間、そこからムワンダっていう街に移動。その移動が夜間だったんだけど、途中誰かが「おい、電気消せ、電気消せ!」って。「空見てみろ」窓から見た夜空に、ものすごくきれいな天の川が見えたんだ。あんなの一生に一度だろうな。回りがぶっとんだ黒人の兄ちゃんばっかりっていうのが全くロマンチックじゃなかったけどね。ツアー中は結構ハードで、メンバー間に喧嘩が起きたりしたんだけど、あれ見て皆心が洗われる感じがしたな。


林;良い話ですねえ。


上川;うん。ツアーは良い経験になったけど、途中でビザ切れちゃうし、不法滞在、参ったよ。飛行機はオープン・チケットだったから問題なかったけど、金も無くなってくるしさ。ツアー中は顎足付きだけど、ギャラなんて出なかったよ。ビザ再発行には在キンシャサのコンゴ人でも日本人でも、誰かの推薦状と、健康診断書と、お金が必要で。始めヴィヴァのメンバーが「よし、推薦状書いてやる」って張り切って作ってくれたんだけど「レコーディング、及びツアーの為に延長お願いいたします」って書いちゃった。観光ビザで入ってんだから、何事か! って突っ返されちゃった。結局日本大使館にいたFさんていう人が推薦状作ってくれた。とても良い人で、いろいろアドバイスもしてくれた。延長の理由は「帰国前に、どうしてもキブ(コンゴ東部)の美しい景色が見たかった」にしろ、一旦受理したら再発行しないわけにはいかないから、受け取るまで粘れ。一度受け取ったら逃げて来い、って。

再発行手続きには役所に何回もジェンスっていうヴィヴァのマネージャーが付き合ってくれた。どこのお役所仕事も一緒で待ち時間が長いから、その間にジェンスからバンドの歴史やミュージシャンのことを聞けて、それはそれで楽しかったな。何度目かでやっと受け取ったから、Fさんに言われた通り逃げ帰ったよ。


林;普通に話してますけど、大変な経験ですね。


上川;はは。そうそう、その頃かな、俺大統領の前でも演奏してんの。当時の、独裁者として悪名高きモブツ大統領。週末のヴィヴァのライヴが終わって、大体朝の4時とか5時なんだけど、出ようとしたらモブツの使いの者っていうのが来て「本日昼過ぎからンセレ(郊外の会議場)でセレモニーがあるから、出演してほしい」って。ホテルで数時間仮眠取って、皆でバスで向かったよ。キンシャサ中心部から小一時間かかったかな。中国庭園みたいな場違いな建物(実際中国人が建てたものらしい)。パラグアイの使節団がきていたらしく、そのためのパーティーか何かだったんだよね。楽屋なんて無いから、幕の下りたステージで皆で待機してた。そのうち、聞きなれたモブツの声がした。当時はラジオ聞いてると、日に何回か「大統領のお言葉」みたいなコーナーがあったから、すぐにわかったんだ。メンバーに「覗くな!」って叱られながらも、幕の間からこっそり見ちゃった。レオパードのあだ名よろしく、トレードマークのヒョウ柄の帽子被ったモブツが見えた。しばらくして、演奏開始。幕が開いたら皆4~50m先の会食場みたいな所に移動していて、ちょっと離れたステージで演奏するって感じだったな。一番手前にこちらに背を向けて立つモブツ見ながら演奏したよ。時々ちらっと横向くんだよね、演奏は気になるみたいで。独裁者の前で演奏した日本人なんて、そうそういないと思うよ、北朝鮮以外ではさ。


林;(笑)


上川;そんな外交に関わるセレモニーなら、O.Kジャズやザイコが呼ばれるのが妥当なんだよ。ヴィヴァなんて当時は町のチンピラ・バンドだったんだから。でも、TVやなんかに出て「ジャポネも入ってるバンド」って話題になってたから、モブツも見てみたかったんじゃないかな。まさか、ヴィヴァが演るような町場のライヴハウスなんか物騒で来れないものね。下手したら暗殺されちゃうから。その日アラタが体調悪くて、それでも頑張って歌ったんだけど。アリ(前出のヴィクトリアのバンドボーイ)が何かあったらいけないから、って付き添って来てくれてたんだ。本当にアリにはいろいろ世話になって、気持ちも通じ合ってた。その後アンゴラで行方不明になったって聞いて、残念だよ。また会いたかった。


林;行方不明って...


上川;そうなんだよ。で、やっと帰国、といった時にまたひと騒動あったんだ。韓国人経営のカフェがあった。行くと「あ、同じアジア人」って嬉しそうな顔してくれるんだけど、俺はハングルも仏語もダメ、彼は日本語もリンガラ語もダメ、で会話はできないわけ。「こんにちは」って挨拶だけ。でも、なんとなく居心地の良い店で気に入ってたんだ。そこでお茶してたら、手に石やこん棒持った男たちがどどどどーって走ってくる。カフェの中見て「ここは違う」ってスルーして、どこか行っちゃって。

そのうちに戻ってきて、近くの店に投石したりガラス叩き割ったりし始めた。なんだなんだって、店にいたコンゴ人のお姉ちゃんに聞いたら「ブラザビルでコンゴ(共和国)とザイール(現コンゴ民主共和国)のサッカーの試合があった。審判の判定に抗議したザイールの選手を、コンゴの警官がこん棒で殴って殺しちゃった。報復として、コンゴ人や審判やってたマリ、エチオピア人の店を襲撃してる」って。選手が亡くなったとか、真偽のほどはわからないんだけど、暴動が起きたのは確か。

次の日、ホテルからも見えるヴィクトワールの交差点の辺りはもの凄い人で、これに乗じて、地方で民主化の学生運動やってたやつらもバスで乗り付けたり、至る所で強奪は起こるは、大変だった。少ししたら落ち着いたんで帰ってこれたけど、最後に凄いもん見ちゃったなーって感じだった。


林;うわー、やっぱりいろんな意味で治安は不安定なんですね。


上川;うん。で、この時の滞在で、ヴィヴァの連中と今でも会えばお互い嬉しい関係が築けたし、若いバンドもいっぱい見れて楽しかった。それが自分の人生の核になっているのは確かだね。


林;ちょっと普通じゃ出来ない体験ですね。


上川;そうだね。で、帰国したらA型肝炎やっちゃって。マラリアの予防薬の副作用もあったんだよね。一か月くらい入院してガリガリに痩せちゃった。体調も戻った頃、神宮さんに「オルケストル・ヨカ・ショック」っていうコンゴ音楽のバンドに誘われた。87年の夏頃だったかな。


林;お、ついに!


上川;うん。ヨカ・ショックはシャンテール(ヴォーカル)が3~4人フロントにいて歌って踊る、っていう向こうのスタイルそのままでやった。90年頃から活動が本格化してきて、91年にメンバーで一人キンシャサ未体験のイシを連れて、俺にとっては三回目のキンシャサ。この時は初めてパリ経由で行って、ヴィクトリア(エレイソン)に入って、パリとキンシャサで演奏した。その後バンド作った神宮さんは抜けちゃったんだけど、活動はかなり真剣にやったな。原宿のクロコダイルや、恵比寿にあったピガ・ピガ、ビア・ホールで演奏したこともある。メンバー全員キンシャサ行ってて、向こうの雰囲気わかるし、やりやすかった。そのうちオリジナル曲も作り出して、全部リンガラ語で歌詞をつけた。ソニーからも声かかったよ。バブルの頃だから、話聞くだけで寿司屋にフグだよ。でも結局「日本語でやってもらわないと困る」って条件のみたくなくてさ、断っちゃった。


林;どうしようもないですね。


上川;そうだね。で、96年に知り合いの横浜のガンボ・スタジオでレコーディングした。スタジオの川瀬 さんが、コンゴ音楽もよくわかってる人で、スムーズにいけたよ。97年にインディーでCD出したんだよね。「BANA KINSHASA BANA JAPON」ってタイトルで。メンバーの中川がそれ持ってパリに売り込みに行った。ザイールはベルギー領だったけど、パリにもたくさんザイール人が住んでいて、バンドも活動の拠点をキンシャサから移したり、盛り上がっていたんだよね。リロ・ミヤンゴっていうパリ在住のジャーナリストが興味持って、彼の尽力でヨーロッパのいろんな所のアフリカン・コミュニティーでヨカ・ショックのCDが売れたよ。パリでライヴをやれる、っていう話も出た。


林;パリってそういう自由さが良いですね。


上川;うん。で、97年の夏、お盆の時期にメンバー全員とその奥さんとか友人とか、10人余りでパリに行った。でも、観光ビザだったからおおっぴらにできなくて、結局パリ郊外サンドニにあったバチカンっていうライヴハウスで演奏した。治安の悪そうな、凄い所でさ、ボロボロのライヴハウスで、でもそこに200人くらいギュウギュウで(もちろん皆ザイール人)、外にも入りきれない人が溢れてた。ザイール人にとっては大スターのエメネヤ・ケステール(ヴィクトリア・エレイソンのリーダー)も飛び入りしてくれて、盛り上がったよ。終わって外出たら若いザイール人が寄って来て「ベース弾いてただろ? すごく良かったぜ!」って声かけてくれた。嬉しかったな。


林;ダイスケさんの伝記映画作ったら、ハイライト・シーンですね。


上川;はは。で、ヨカ・ショックは2000年まで活動してて、2002年に日比谷公園であったアフリカ・フェスに出るために再結成して、また休止。2011年にベルギー人の現代美術のアーチスト、カールステン・ヘラーから、彼の企画する「コンゴ・ジャポン展」に出てくれってオファーが来たけれど、もうしばらくやってなかったし断ったんだよね。でも、ならばヴィデオだけ流したいって。それで一回市川のスタジオで演奏して、その演奏送ったんだ。フランスのどこだっけな・・・美術館で期間中は流れていたんだって。ヨカ・ショック、またやってください、ってよく言われる。でも、まぁ、もうやらないだろうな。皆歳取っちゃったしさ、やり切った感もあるのよ。


林;真弓さんとの出会いも教えてもらえますか。


上川;ああ、真弓と出会ったのは88年。原宿のキャットストリートの裏にトレンチタウンっていうレゲエ雑貨屋があってさ、そこにライヴのフライヤー持って行ったら、遊びに来てた彼女と会ったの。で、ライヴとか見に来てくれるようになって、って感じかな。知り合って5年して、93年に結婚したんだよね。パーティーを恵比寿のピガピガでやっただけ。


林;さらっと説明していただけましたが、真弓さんが「ダイスケ、ほんと、カッコ良かったのよ」っていつも言ってますね。


上川;そう? で、いつかお店をやりたいねーなんて話してたから、俺は実入りの良い現場仕事してた。空調ダクトの設備屋。つくりものも多くて、結構楽しかったな。マレーシア人の同僚とかもいて皆日本名つけられちゃって、タナカくん、とかコバヤシくんとかさ、やつらとの付き合いも面白かった。妙に懐かれちゃって「ダイスケさんと同じ現場がいいです」なんて言い出すやつまでいたよ。昔から、非白人系外国人と、犬猫にはすぐ懐かれんのよ、俺。


林;(笑)


上川;で金も少しずつ貯まった頃、アパートの更新にかみさんが行った時「将来飲食店やりたいから10坪くらいの店出たら教えてください」って頼んだら「あるよ」って。市川駅から徒歩2分、スナック居抜き。居抜き譲渡料含んだ保証金ってのがちょっと高かったんだけど、場所も良かったから国民金融公庫に借金して始めちゃった。オープンは95年の4月。レゲエって言っても、ロック・ステディとかSKAをかけるバー。店名の VIS-A-VIS (ヴィザヴィ)は、キンシャサのライヴハウスから取ったんだ。バンドメンバーもほとんど市川に住んでたし、初心者が始めた店にしては、良い滑り出しだったと思う。そのうち、商大(千葉商科大学)の美術部の学生たちや、英語の先生やってるイギリス人なんかも来だして。当時は店も多く無かったからさ。


林;市川の面白い人が集まるお店だったんですね。


上川;まあそうかな。で、週末は若いのにDJやらせたり、隣の寿司屋が休みの水曜日にライヴ入れたり、いろいろやった。開店の年の秋にブルーノート7周年でパパ・ウェンバも来日した時、わざわざ市川まで来てくれたよ。


林;それは嬉しいですね。


上川;うん。で、2001年に駅の逆側、南口に ZAZOU っていう、もう少し明るめの、ラウンジっぽい店を出した。イームスの椅子置いたり、ソファがあったり、音楽もレゲエにこだわらないで。でも二店舗経営って結構しんどくて、しばらくして、ZAZOU の方は店長やってた西本に完全に渡しちゃった。嬉しいことに西本、まだ市川で続けてくれてるよ。


林;飲食店って「二軒が一番大変」って言いますよね。


上川;そうかもなあ。で、市川駅周辺にもチェーン居酒屋が増えだして、学生も酒飲まなくなって、なんとなく勢い無くなっちゃったな、煮詰まっちゃったな、と思って2004年の9月にヴィザヴィは閉めちゃった。でも、閉店近くにお客さんがサプライズでパーティーしてくれたり、その時知り合った人たちと今も付き合いがあったり、大して儲からなかったけど、それが財産だと思うよ。


林;本当にあっさりとやめちゃいましたよね。


上川;うん。かみさんもう別の仕事してたし、気分転換に引っ越すか、って渋谷に来たんだ。


林;渋谷でお店を始めた経緯を教えてください。


上川;渋谷で店また始めたきっかけ? そりゃ、林くんだよ!!

俺こっち(渋谷)に来て、生協のドライバーや飲食店の雇われ料理人したりだったんだけど、林くんが「ダイスケさん、また店やってくださいよー」「渋谷で店始めてくださいよー」って会う度言うんだもん。ある時かみさんと bossa に飲み行ったらまたその話になって「不動産屋、紹介します!! うちもお世話になってるS って、この辺りの物件たくさん持ってるんです!」って言ったの、覚えてる?


林;言ったような覚えがなんとなく...(笑)


上川;言ったよ。で、そこまで言われちゃったらなぁ、って一応不動産屋さんに挨拶行ったんだ。「小さくていいんですけど、飲食店できる場所出たら教えてください」って。したら「あるよ」って。ヴィザヴィの時もそうだけど、物件探しにはあまり苦労しなかった。考えてみたら住まいもそうだけど、なんとなくちょうど良いのが転がって来て、そこにすぐ決めちゃう。


林;物件は本当に出会いですよね。


上川;そうだね。今の店、Los Barbados は、以前の1/3の規模、4坪欠ける小さな店。坪単価で考えると決して安くないけれど、何せ小さいから毎月の家賃も高くない。保証金も大して高くなかった。
一人で始められるにはいいかな、と思った。ここ借りてやろう、と決めた時にタワーレコードで知り合いのミュージシャンに偶然会って。昔カセットコンロスでドラム叩いてた福家くん。また店やろうと思ってさー、物件スケルトンなんだよね、なんて立ち話してたら「あ、俺木工できますよ。店舗もやりたい」って言ってくれて。カウンターや棚は福家くんが作って、俺が壁塗って、って感じで造った。アールのついたカウンターや、厨房内の動きやすさなど、福家くんのおかげで良い感じにできて、2010年1月の末にオープンした。


林;なんかちょっとした出会いでダイスケさん、人生が全部決まっていくんですね。


上川;そうかもね。で、来てもらった方はわかると思うけど、路面店じゃなくて、ビルの通路入った奥なんだよ。目立たなくて、初めは苦労したなぁ。昼、夜開けてお客さん全然来ない日なんてのもあった。市川時代は12年近く店やって、売上0の日なんて一日も無かったからこたえたね。


林;そうだったんですか。


上川;そう。で、かみさんはまだサラリーマンやってて、妙に楽観的でさ「大丈夫、大丈夫、その内大化けすっから」なんてなんの根拠もないこと言うわけ。後から聞いたら「覚えてない」って。出張続きで忙しかったからわかるけどさ。で、そのかみさんも仕事辞めて5月から一緒に店やることになった。まだまだ大変だったけど、少しずつお客さんが来だした。楽では無かったけれど、いざとなったらかみさんに任してここの家賃分くらい俺がビル清掃の仕事でもして稼ぎゃいいか、なんてことも考えてた。一年余りたった2011年の4月のブルータスの酒場特集だかに、小さく載ったんだ。その影響は結構あったかな。


林;ブルータスって本当、大きいんですよね。


上川;うん。で、雑誌で取り上げてもらうことも増えて、ラジオも一回だけ出た。TVは取材依頼はたまに来るけど全て断っている。TV嫌いだし、狭い店だから一気に来られても困るし。気に入ってリピートしてくださるお客様が入りづらくなったらイヤだからね。あ、コンゴのTVは別だよ。こないだも取材受けて出たばかり。市川では夜開けて深夜過ぎまでやるバー営業だったから、今度は飯中心の店にしたかったんだよね。ランチからやって、夜はあまり遅くない時間に閉める店。最初はバー使いの方も多くて1時2時までやっていたけれど、アフリカ料理って知られてきたり、ヴェジタリアン・メニュー増やしたりしたら、徐々に食事メインのお客様が増えてきた。今は完全飯屋だね。売上の半分以上FOODだよ。

夜も早く閉められるようになった。22時半にはクローズ札出して、カーテン下ろして掃除しているのに「二名ですけど」ってお客様が入って来る。この状況、どっから見ても閉店後だろ、オヤジがしゃがんで床掃いてんだから、って思うけど、ありがたいよね。集客に苦労した初期に比べたら、予約の電話断らなきゃいけない日もあるから。わざわざ予約して来るような店では無いんだけど、狭いから仕方ないのかな。ただどっかの店みたいに「数か月先まで予約でいっぱい」なんてこと無いよ。ガラ~ンとした日だってある。まぁ、おかげ様で、夫婦食っていけてるからありがたいよ。

奥渋谷なんて言われて、今この辺りで物件探している人多いらしいね。何にも無かった頃からずっとやってきた bar bossa はすごいし、いいタイミングで声かけてくれた林くんには、本当に感謝してます!!


林;いえいえ。ほんと、僕も外国人の友人が渋谷に来たら、必ずバルバドスさんって決めてます。みんな絶対に気に入るんで。さて、みんなに聞いているのですが、これから音楽はどうなると思いますか?


上川;荻原和也さんのアフリカ音楽本に「アフリカ音楽の黄金期時代は過ぎ去っている」ってあるんだよ。悲観的な言い方しちゃうと、アフリカだけでなく、世界中の音楽の黄金期は過ぎてるし、ひいて言えば人間の文化の黄金期が過ぎているのだと思う。これから若い世代には、その世代の考え方があるんだろうから世代なりの何かが出てくるかもしれない。それでいいんじゃないのかな。正直、これからの音楽には悲観も期待もしてない。ただ、好きなことを好きなようにやれた世代として、今の若い世代やその子供たちにも、好きなことを好きなようにやれる時代、社会であってほしいと思います。


林;それではみんなが待ってる選曲に移りましょうか。テーマは?


上川;「俺のキンシャサ」です。星の数ほどある好きな曲の中で、ライヴ映像のあるもの、現地の雰囲気が感じられる10曲を選びました。


01. ZAIKO LANGA LANGA / ELIMA NGANDO
ザイコ・ランガランガ / エリマ ンガンド

上川;ZAIKO LANGA LANGAは、コンゴ音楽史上第三世代と言われる新しいスタイルを作り出したバンド。メンバーが固定し、安定期に入った頃の映像。'70年代からオータンテシティ(オーセンティック)、つまり伝統回帰が興る。ここに見られる大ヒットしたダンス「ゼケテ・ゼケテ」は、フォルクローレが強く打ち出されたもの。


02. Victoria Principal / Deux Temps
ヴィクトリア・プリンシパル / ドゥ タン

上川;二つの時。人生には、過去と未来しか無いのだ、という歌。現在は一瞬にして過去になってしまうからなのか。バンド名は、当時流行ったアメリカのTVドラマ「ダラス」に出てきた女優から。ヴィクトリア・エレイソンから一時枝分かれしてできたバンドだったが、短命(2年くらい)に終わり、8枚のシングルしか出していない。


03. Choc Stars / Male
ショック・スターズ / マレ

上川;LANGA LANGA STARS から枝分かれしたバンド。'83年~'80年代後半にかけて黄金期を築く。後半は円熟味を増し、特にお金持ちに受けていた。この映像はわりと初期なので結構とんがっている。子供たちのダンスが上手! 「ロボティ・ロボタ」という名のダンスは多分キコンゴ(コンゴ語)。当時人気を博した。


04. VIVA LA MUSICA / Etat Civil
ヴィヴァ・ラ・ムジカ / エタ シビル

上川;'83~'84年「ルンバ・ロック・フレンチェン」というダンスが流行った頃のヴィヴァ。ちょうど日本でリンガラが聞かれ始め、このダンス名からコンゴ音楽を「ルンバ・ロック」と呼ぶ日本人もいる。メール・フレンチェン(本名アドロ)という、ヴィヴァのパトロンだった女性のためのダンスである。パトロン文化が根付くコンゴ音楽業界では、パトロン個人のために歌やダンスを作ったり、演奏中名前を呼ぶことも珍しく無い。


05. VIVA LA MUSICA / Mea Culpa
ヴィヴァ・ラ・ムジカ / ミア クルパ

上川;パパ・ウェンバの作った中でもかなり、ベストでマストな一曲。まだエメネヤ・ケステールも在籍していた、'80年頃の最強のヴィヴァ。当時の独特の疾走感がある。この辺りの音源を、経済学者の岡崎彰氏がアフリカから持ち帰り、親交のあった高円寺のレコ屋「アミナタブ」へ。そこから俺たちが耳にしてぶっ飛んだ、というわけ。


06. Rumba Ray / Mj Ngoy
ルンバ・ライ / メイジェイ ンゴイ

上川;ヴィヴァの初来日に連れて行ってもらえなかった若きシャンテール(Vo.)スティノが、マライ・マライ率いるルンバ・ライに入れてもらって歌ったもの。スティノは、ヴィヴァがコンゴに帰国すると、すぐに出戻った。'89~'90年、キンシャサとパリで大ヒットし、スティノはスターになる。Mj Ngoy は、スティノの奥さんの名前。


07: LANGA LANGA STARS / BAKUTU
ランガ・ランガ・スターズ / バクトゥ

上川;ザイコとヴィヴァからミュージシャンをごっそり引き抜いて、エボロコが'81年にバンドを作った直後の映像。行った人にはわかるが、キンシャサ臭ぷんぷん。行かなくてもわかるのは、メタ・カンパニーの海老原氏くらいか。フロントの向かって左端のジャナナは、話がとて面白く、巧妙なMCで観客を盛り上げたらしい。


08: KING KESTER EMENEYA & VICTORIA ELEISON / ATAMPIAKA
キング・ケステール・エメネヤ&ヴィクトリア・エレイソン / アタンピアカ

上川;ヴィクトリア最高傑作のひとつ。アルバム「マンハッタン」に収録。'87年当時キンシャサにいた頃、耳にしない日はなかったくらい大ヒットした。2014年2月のエメネヤ没後も、実弟であるジョリー・ムビアラ、エル・シャント、カルトゥーシェ、ルトゥラ(G)、を中心に「ヴィクトリア・エレイソン・グラン・コンプレ」というバンド名でパリで活動中。


09: Anti Choc / SISI
アンチ・ショック / シシ

上川;ZAIKO→LANGA LANGA STARS→Choc Stars と渡り歩いたシャンテール、ボジ・ボジアナが'86年頃に結成したバンド。後に「ニーズに合わせて」女性シャンテールを入れて丸くなったが、これは尖がってた頃の映像。フロントの向かって右から二番目のアドリは、無口だがとても良い人で、よく葉っぱ屋に誘ってくれた。


10: TP OK Jazz / Mario
TP OK Jazz / マリオ

上川;言わずと知れたコンゴ音楽の王、フランコ率いる OK Jazzの、'85年最晩年の映像。マディル・システムの歌から始まるこの曲は大ヒットになった。年上の女性のヒモになっているマリオに、そんなことは早くやめ、家に戻って仕事をしろ、という内容。フランコ曰くマリオはコンゴ人ではなく、ポルトガル人だそうである。




林;ダイスケさん、今回はお忙しいところどうもありがとうございました。みなさんも是非、ロス・バルバドス、行ってみて下さい。すごく良いお店ですよ。では最後にダイスケさんが在籍したヨカ・ショックの映像をご覧ください。

Orchestre Yoka Choc du Japon - Bana Kinshasa



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夏ですね。熱い音楽を聞いて乗り越えましょう。
それではまた来月、こちらのお店でお待ちしております。


bar bossa 林伸次


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bar bossa information
林 伸次
1969年徳島生まれ。
レコファン(中古レコード店)、バッカーナ&サバス東京(ブラジリアン・レストラン)、
フェアグランド(ショット・バー)を経た後、1997年渋谷にBAR BOSSAをオープンする。
2001年ネット上でBOSSA RECRDSをオープン。
著書に『ボサノヴァ(アノニマスタジオ)』。
選曲CD、CDライナー執筆多数。
連載『カフェ&レストラン(旭屋出版)』。

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